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民族関係の変異 第三回

 第三回目となる今回は、国家とは何か、そしてその国家のもとでどのように民族が生成され、維持されているのかを見る。

民族は国家とは異なったカテゴリーで人々をつなげる作用を持っている。故国家とは異なった文脈で語る方が良いこともあるが、民族アイデンティティが政治活動に強く影響するアイデンティティポリティクスがあったり、一つの政治体の中で複数の民族が互いにバラバラに居住するという社会を描いた複合社会論があるなど、国家と強く結びついた現象が広く見られるため、今回は国家と民族という構図からそれぞれを見ていきたい。

まず、国家であるが、今回の話ではこれを近代国家、もしくは国民国家に依拠した形で考える。言い換えると、国民という一つのまとまりが、想像的・存在論的にあるとされ、その人々が国家を統治する主体となっており、その中で国内的な政治経済活動が行われており、国境によってまた別の国家と境界線を持つような国家である。

こうした国家がどのようにして生まれてきたのかということについてここでは詳しく議論することはしないが、国家が国民と搾取・保護の関係性を結んでいることや、国民国家・近代国家は西欧基準で作り出されたものであり、それが西欧とは異なった歴史的背景を持つ地域にも適応されていること、そしてそれがかなり暴力的な意味合いも含んでいることについては触れておきたい。

国家は国民を搾取し、その見返りとして国民を保護する関係を結んでいる。例を挙げるならば税金と国防軍である。国家が年ごとの国家予算を維持するのはそれ自体が経済主体となるのではなく、経済主体としての国民から資本を抽出することで成り立っている。

こうして経済的搾取を行うことで国民の経済活動を円滑にとり行うための様々なサービスが提供される。防衛と司法、そして公共事業などが税金を合法的に抽出するための理由となっている。

ここで国民という存在を作り上げる必要がある。国家への帰属意識に疑問を持たず、そこに税金を納め、様々な抑圧を受け入れる存在をある程度人工的に作り出すことが求められる。

国家への帰属意識を持つというと、何か特別な思想が介在し、過激思想につながっている感覚を持たれるかもしれないが、帰属意識は何もそういうところにのみあるのではない。役所の資料に住所を書き、国家史を自明のものとし、海外旅行の際にパスポートを持つなど、我々の生活世界を形作るものの大部分がそうした帰属意識につながっている。

国家の歴史と世界地図の中での位置付けに加え、例えば博物館や国勢調査もそうである。人口統計もある国家が存在していることを証明するための構成要素となりうるのだ。

A国はこういう地理上の特性のため、こういう発展を遂げてきた。その軌跡上にはこういう人々が活躍し、そうした国家的な英雄とつながる人々が想像される。血は繋がっているから重要なのではない。繋がっていると想像され、そう信じられているから重要になってくるのだ。

こうした国家に従属する国民が作り出され、維持されていく。言語的、宗教的、文化的特性が共通項を作り出し、人々をある一つの規範に押し込める。こうした規範によって世界観が規定され、ある国家国民はこういうものの見方をする、というようなことが言われる。文化の型である。国家の自律性を維持するため内部には同質性が要求され、外部には異質性が見出される。

こうした同質性と異質性は恣意的なものであることは繰り返し述べてきた。日本と西欧の食文化を対置させるには、米と麦を対置させることが分かり良い。しかし、日中韓の食文化となると、米を多かれ少なかれよく食べるという傾向はたちまちに消え失せ、和食の独自性が発掘され、韓国料理の起源が模索され、中華料理の伝統が喧伝される。国家の歴史を取ってみると、物理的に近い国は精神的に遠い国になりやすいのかもしれない。

民族というものも国民と同じような部分を持ち、想像されたものである。ある民族をAとし、その民族Aが居住するとされる区域に近い区域に住む民族Bがある。彼らを民族Aと民族Bに分けて二つの単位とするまでは良いが、肝心の彼らに自分たちの関係をどう捉えているのかと聞くと、AとBに他者が、AはこうでBはこうであろう、という風に当たりをつけて考えた区別は意味をなさず、彼らの中にはまた別の捉え方があった。故に集団は実際には2つではなく、3つであったり、それはまた時の流れ次第では2つにもなれば4つにもなる、という具合に静的なものではなく動的なものであることは多々ある。

Chineseという民族カテゴリーがある。彼らの区分は植民地時代に西欧式の基準によって人口調査のために生み出されたものである。Chineseと認識される人々はその時代において、潮州人や福建人といったアイデンティティを持っていた。Chineseというカテゴリーは近年生み出された人工的なものである。

便宜的にせよ意図的にせよ生み出された民族というカテゴリーは表面上の人々を束ねる特性を持つ。血の継承によって人々の間で帰属意識が共有される。その継承を裏付けるのが歴史である。歴史が帰属意識を作り、帰属意識が血を作るという循環が民族の保持に繋がっている。

近代化と植民地主義の拡大によって花開いた国民国家と民族の時代は現在も続いている。そしてその時代は我々の認識を規定し続けている。これは何も表面上に見えるものだけではなく、日常生活を送る上で無意識に、そして連続的に生じるものである。愛国主義や隣国への敵意を示すようなデモや行動に対して、我々は好感・嫌悪感どちらにせよ、何か強い印象を持つであろう。自民族中心主義が強調されるあまり大規模な民族粛清や大虐殺が生じたことは歴史の教科書を開けばよく分るであろう。こうした顕在化する国民・民族主義だけが何も国民主義につながっているものではない。役所の資料に住所を記入することに始まり、日常会話の中で無意識に現れる民族的に少数派な人々への差別的発言。インターネットが普及し、発言上の匿名性が強まっている現在、何か事件や社会的問題が発生するたび、その犯人はもしかしたら目の形が特定の形をしているのではないか、皮膚の色がこういう色をしているのではないか、というような無責任な発言が流布しやすくなっているように見える。

ここではその発言を断罪するということを意図しているのではなく、なぜそういうことが生じるのかについて検討したい。言い換えると仲間意識と他者意識である。自らある集団に帰属意識を持つことは言い換えるとその帰属する集団に少なくとも所属したいという意識がなければなりたたない。人は誰しも自らの社会的立場を向上させたい、少なくとも不利な側ではなく有利な側に身を置きたいと考えることには道理がある。学生であるという身分は言い換えると、教育を受ける機会を得、かつ社会的にも保護される権利を得ることを示す。大学生であることはモラトリアムを謳歌することであるから大いに自己実現をしなさい、とはよく耳にすることであ。そうした利益があることに加えて、上位大学に所属していることは、将来性や賢さということ、卒業生との関係を示すことにもつながる。故に、大学生である、どこどこの大学に通っているという、さらに絞り込んだ帰属意識も生み出せる。日本において大和民族であることは社会において多数派に所属することを意味する。税金を納め、国民としての義務を果たせばそれなりの見返りを得ることが確保される。我々は日本において一級市民であり、我々がこの国を支配しているという感覚が意識無意識の別なく存在する。

こうした一級市民の感覚と利益を確保するための代償を払うのは常に社会の二級市民の責務である。有り体に言ってしまえば奴らは捌け口にされて当然である、という感覚がある。その捌け口の対象にされてしまうのは彼らではなく、奴らである。ここでいう他者意識とはこうした感覚である。恐ろしいことに社会の多数派に所属するとこうした感覚は意識されづらくなる。

社会的に有利になる集団への帰属意識は所属する人へ一種の優越感を与える。多数派民族と国民、一級市民という感覚は三位一体である。では、少数派に帰属するとされる人々はどうであろうか。民族への帰属が、優越性と利益を確保するための手段となっているという一般化された議論はどの程度ここに適応できるのであろうか。少数派は不遇な目に遭うのにも関わらず何故帰属意識を持つのであろうか、という話に入る前に、奴らというカテゴリーには血の暴力性があることを述べておきたい。民族というカテゴリーを生み出すには血の継承という儀礼が必要であることは先述したとおりである。

多数派に見られたこうした儀礼が少数派にも適応され、それによってカテゴリー化がなされる。あの民族の外見はこうである、というのも遺伝子的にこうであるからだというような虚構が流布することを見てもそれは明らかである。民族カテゴリーは先天的、すなわち生まれた時からあるということである。人種という言葉には概念的に先天性がつきまとう、つまり遺伝子の問題である。これに対して民族という言葉は後天的な意味合いを持ち、言い換えると社会的構築物という意味がある。ある特定の集団を民族的に分類するという我々の日常生活を構成する重要な一要素はこうして人種と民族という二つの言葉が持つ意味合いが混同、誤用されることで真実味を帯びてくる。

こうした先天性と後天性の混同によって作り出された社会的弱者の存在は事実の曲解によって強化される。黒人は知能的に劣っているという誤解が社会の中でまことしやかに言われている。白人優越主義によって作り出された虚構はポストコロニアリズムや少数派からの反撃によって弱められたかのように見えるが、日常生活のあらゆるところで顕在化し続けている。アメリカにおいて白人は高等教育を受け、社会的に成功している。それに対して黒人は社会的に成功しているものが少ない。というのも奴らがバカであるからだ。というような誤解を耳にするが、それはあまりに事実を現代という短いスパンで曲解しているからである。奴隷貿易によって連れられてきた黒人が政治経済的成功を収める可能性は白人に比べて少ない。こうした事実があることを常に念頭に置いておく必要がある。では、奴隷にされた側はやはり知能的に劣るのではないか、という問いが出てくるやもしれないが、さらに長い歴史的スパンを見れば、例えば伝染病への抗体の豊富さや地政学的に有利な地域にあるというような要因もあり、大航海時代から植民地時代にかけての西欧の優越性が人種による賢さに起因するとは断定できない。

日本における事例を取り上げてみる。人々が最低限の生活を遂げられるように考案された社会福祉の原則が民族的少数派に適応されることに対して多数派の心情は芳しくない。社会的弱者が社会的成功を収める機会は少なく、ややもすると明日を生きることすら厳しい状況に置かれる人々を救うための措置がとられることに強い疑義が向けられる。現在という時点にのみ思考の起点が置かれるため、社会的弱者の歴史的立場が考慮されない。加えて人々の思考は自らの生活世界から無意識のうちに影響を受けており、我々は自らの立ち位置に依拠しながら思考を巡らせる習性にある。故に、奴らに対しての言説は厳しくなる。日本においては社会福祉の適応と社会的少数派への断罪が偏見とステレオタイプの醸成につながるのだ。

国家一つ一つをとっても、社会一つ一つをとってもその状況は異なるが、自らを有利な立場に置きたい、そのための枠組みをつくりたいという思いが自集団の構築につながる。そしてこうした自集団と対置されるべき他集団が同時に生み出される。自らが有利になるということは必然的に不利な他者ができるということである。国民国家の下においては、国民となるべき単一の民族が作り出され、彼らは一級市民となる。こうした多数派の一級市民は少数派の集団を二級市民として無意識に捉え、それが「奴ら」の状況と立場を悪化させているにも関わらず、そこにかかる措置は事実の曲解によって悪く捉えられる。断罪されるべき社会的に悪な集団が生み出される。偏見はそれに付随し、こうして自集団と他集団は善悪という二項対立の構図を取る。

こうした民族の差異の二項対立が維持され続けていることについては考えたが、なぜ少数派の民族にも帰属意識が生まれるのか、ということにはいまだに答えていない。故に次回ではアイデンティティポリティクスという観点からこの問題について考えてみたい。

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