民族関係の変異 第二回

前回ではAとBの関係性が虚構に支えられたカテゴリー分けの結果であり、自他の区別とそこで生じる競合にあるということを考えた。

今回はそのAとBの区切りと民族の生成について考えてみたい。

人は身の回りにあるものをを類別することで認識することができる。博物学は自然環境にあるものを収集しそれを分類することを使命とする。そこでは共通点と相違点が重要になってくる。メスの体内で子供を生育し大きくなってから体外に出すというような胎生、そして乳で子を育てる動物は哺乳類という分類をされる。ここで重要なことは共通項でくくられるということだ。哺乳類より下の分類ではネコ科やカモノハシ科といった類別が用意されておりネコとカモノハシの違いが強調される。よく言われる話しであるが、カモノハシは哺乳類で唯一卵を産むものとされる。こうした違いが集まり類別が行われる。

こうした類別が一旦行われるとそれが現実に存在しているように感じられる。哺乳類であるにも関わらず卵を産むカモノハシがイレギュラーに感じられるがそれはカモノハシを別の共通項を以て哺乳類に囲い込んだからである。カモノハシという名前を与え、哺乳類に囲い込むことで人はカモノハシという存在を認識する。

ソシュールが言語学にもたらしたパラダイムシフトがここにある。シニフィアン(音の形)とシニフィエ(音の意味)がそうである。ある音の形とその音の意味が結びつくとき現実が分節化される、言い換えると、現実が切り取られるのである。AとBを共通点と相違点を以て類別することで世界は切り取られ、存在が作り出され、そこで初めてそこに存在が生み出される。木は木という名を与えられ、桜やサルスベリという類別によって互いに異なるものであると認識される。

こういう類別がなされてから存在が作り出されるのであるが、現実の世界では倒錯した認識がなされる。すなわち、存在ありきで類別がなされるという感覚である。

ここで初めて民族の生成について考えることが可能になる。民族というカテゴリーを私たちは自明の理として捉えている。大和民族があり、漢民族がある。中華人民共和国臣民の大部分は漢民族である。漢民族は中原から中国全土にひろがっていったとされる。中国5000年の歴史を通して漢民族は中国の主権者となったのである。彼らは全歴史を通して単一の民族であると言う想像がなされる。実際には中華人民共和国というくくりは近代の産物であり、漢族というカテゴリーも近代に入ってのことである。こうした架空の存在を作り出し、維持するために様々な「発見」がなされる。儒教的考え、黄帝炎帝伝説、こうしたキーワードが歴史教育を貫く。ここでも地図と歴史の幻術が大きな役割を果たしている。

平地に住み、年貢や税を納める人々を皇帝の「臣民」とし、山地に住み、平地国家の様々な要求に答えない人々を「あちら側の人々」とし、この二項対立が「漢族」と「少数民族」という構図に繋がっている。

このような過程を経て世界中で様々な民族が生成され、自集団の同質性、他集団との異質性が虚構に支えられながら作り出される。

自他の区別が国民国家─国民と一対一関係にある国家─同士の場合、例えば国民の大半が大和民族であるとされる日本と漢族の中国、ナショナリズムや国境線、領土といった問題が浮上する。これは均質性を保った異質同士の関係である。これに対してマレーシアやインドネシアと言った「多民族国家」の典型ではその内部で異質性の問題が顕著である。日本や中国と言った「単一民族国家」では均質性の暴力が強く働き、異質とされる人々の主張は全展望監視装置パノプティコンによって黙殺される傾向にある。男女の性差は未だに強く社会に根付き、長幼の差は強調され、場の雰囲気や周りに合わせることが要求される。同質性の暴力が顕著である。

次回以降では違いが強調される多民族社会について考えていくが、これも類別の副産物である。虚構によって一旦存在を作り出された自集団と他集団が虚構によって作り出された一つの国家の下、存在を持続させていく様を見ていきたい。 

杉田敦. 境界線の政治学. 岩波書店, 2015.

SCOTT, James C. The art of not being governed: An anarchist history of upland Southeast Asia. Yale University Press, 2014.