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民族関係の変異 第一回

民族関係とは何かを、マレーシアをモデルにこれから考えていく。

民族間での関係があるということを自明の理として扱う前に、今回は関係性について一度問い直してみる。

関係性があるということは裏返すと誰かと誰かが相互に関わりを持つということに他ならない。AとBが存在し、互いに何かしら働きかけるということだ。

ここで一度、AとBが存在するとは何かを問い直す必要がある。AとBがあるということは、その起源があるからである。人は素材無しに何かを生み出すことはできず、0から1を創造するのは神のみが成せる業であるからだ。その人間が0から何かを作り出すには創造ではなく想像を用いる他はない。すなわち、想像を支える虚構が必要となってくる。

AとBというカテゴリーを作り出すにはその根拠となるものがあるはずだ。人間というカテゴリーから更に細かなカテゴリー、例えば日本人、白人、政治家、障碍者というような社会的に自明とされるものを生み出すには何か基準を設定しなければならない。日本人というカテゴリーを生み出すには国籍という基準が最適であり、白人を生み出すには肌の白さを強調すればよい。政治家という話しをするには、職業という社会的な階級に関わる物差しが使われると想定される。障碍者というカテゴリーを作り出すには、健常者というカテゴリーを生み出し、それと対比させればよい。

自然・社会科学的観点で人類は様々なアイデンティティを、先天的後天的に関わらず半ば強制的に獲得していく。こうした基準は科学という幻影によって自明視されがちである。しかし、こうしたカテゴリー化とでも呼べるような囲い込みの基準に確固たる根拠はあるのであろうか。

青色の目をした人を青目人、茶色い目をした人を茶目人と呼ぼう。足の大きさが28.5センチ以上の成人男性を大足人と呼び、26センチ以下を小足人と呼ぼう。髪が生えるのが早い人を頭髪成長異常と呼んでみよう。こうしたカテゴリー化は何か不格好に感じられる。しかしこれらは身体的特徴を基準にしてカテゴリー化やレッテル貼りを行っていることは白人と黒人のカテゴリー分けと大差があるかと言われると答えに窮する。もちろん白人がヨーロッパという地域に根付き、黄色人種がアジアに分布してきたということから前者と後者には違いがはっきりしているのではないかという反論もあり得るが、それでも例えばラテン系とゲルマン系の肌の白さは全く異なる。

肌の色を基準にした人種論は結局のところ肌に含まれるメラミンの量と日光に含まれる紫外線の量で多少の説明がつく。砂山のパラドックス、すなわち、ある砂山から一粒の砂を取っていけば、最後は一粒の砂山に行き着くのかという話しと同じであり、肌の色は程度の問題である。

ここで言いたいことは畢竟人種論や民族論と言ったカテゴリー分けは恣意的なものであり、絶対というよりも相対であるということだ。自明視されるべきものの根拠が絶対的でないのならばその存在は揺らぐことになる。ということはその絶対性を疑わせないための虚構が必要である。日本人という単位を例にとってみる。このカテゴリーは一見揺らぐことのない確固たるもののように見える。日本人とは何かという問いに対して予想される答えは例えば日本語を話し、日本の教育を受け、日本国籍を取得し、日本の文化を多少なりとも継承した人々、という具合になるであろう。即ち、日本という存在に慣れ親しんだ人々であり、日本人という「血」を受け継いでいる人々である。ここで日本という存在は紛れもない事実であり、それを疑い、異議を唱えるものは異端者であり、戦時中における非国民であると受け取られるやも知れない。

では、日本というものは何であろうか。1億3千万ほどの人口を持ち、富士山が日本の山を象徴し、全国民の象徴としての天皇制を採用し、議会制民主主義を以て政治的意思決定をする国、という説明も考えられよう。そしてなにより2000年の歴史がある。これを疑うことは狂人の沙汰と捉えられるやも知れない。

日本という存在が相対的で恣意的なものであるということを話す前に、地図と歴史の話しをしてみたい。

日本地図がある。北は北海道と北方領土、南には沖縄と尖閣諸島が描かれている。世界地図がある。日本で発行されているものは右に南北アメリカ、左にヨーロッパとアフリカが描かれている。日本は世界地図のほぼ真ん中に位置し、中国や韓国と国境を接している。当たり前のことであり、疑いの余地がどこにあろうか。

歴史の授業で我々は弥生時代の人々と繋がっており、織田信長が本能寺で殺害されたことは当然であると認識している。古文の授業を通して古事記から好色一代男まで一通りの古典文学に親しむよう促される。こうした一連の歴史語りや歴史想起によって我々は太古から日本人の「血」を受け継いでいると思う。

地理と歴史の授業は別々に行われ、それらを頭の中で統合すると、北方領土から尖閣諸島まで日本の領土であり、そしてそれは太古から受け継がれる血で生きる我々のものである。日本人は数々の戦国武将や文学者の子孫であり、自国を愛するように促される。それは当然であって、何を今更疑うのであろうか。

北海道以北は例えばアイヌの人々が代々居住し、沖縄諸島は琉球の人々が守ってきたことは歴史と地理の虚構に消えていく。アイヌの地は北海道という地名に、琉球は沖縄県という地名に塗り替えられていく。その作業はとても鮮やかであり、自然なものである。

日本という存在が近代以降の西欧的観点である国民国家という枠組みの産物であることはとっくの昔に記憶の遥か彼方に追いやられる。日本は今、ここにあるとされる。多様性をほこる様々な言葉は標準語という存在の発明により、方言という身分に鞍替えし、ご当地という呼び名で以て称される。ばらばらであったそれぞれの邦は廃藩置県という名のもとに日本という人工物に取り込まれる。帝国期には多様であった民族が終戦を機に大和民族というものに集約され、単一民族のペンキで全てが塗り替えられる。併合にあたって日本という枠組みに統合された人々はイレギュラーであり、民族的マイノリティという別の枠組みに取り込まれる。こうして、大和民族による日本という、民族と国家が一対一の関係にある近代国家がここり生まれる。

こうして虚構に支えられて作り上げられた存在はその定義の際に他者を必要とする。日本人であることは裏返すと中国人でもなく韓国人でもない。こうした他者もまた各々で歴史と地図の虚構に取り込まれ各々のアイデンティティを獲得するよう自集団の中で要請される。彼らもまた日本人を他者と見なすようになる。かくして、西欧基準の近代国家が咲き乱れ、国境線は確定し、それをめぐる政治的やりとりが繰り広げられる。

日本人というカテゴリーに囲い込まれるには日本人というカテゴリーに相応しい所作や考え方を課される運命にあることを示す。日本語を話し、日本の文化に慣れ親しむことが想定されるのだ。そこからはみ出すと、社会的異端者というレッテル貼りを甘受し、様々な罰をこうむることになる。社会全体に相互監視体系が張り巡らされる。ベンサム考案の全展望監視装置パノプティコンが社会を規制し人々を抑圧する。ある集団にあるとされる同質性が重要視される。こうした内的同質性が集団の存在意義に深く関わるからである。

AとBという存在は根拠が曖昧で恣意的な虚構によって触媒され、誕生する。それは互いに異質なものであり、それによって自他の区別がなされる。この関係性の維持のためには内的同質性と相互異質性を強調する必要があり、結果として「自/他」=「友/敵」という構造に取り込まれる。これはカールシュミットの言う政治とは何かの話しと同じような形を取っている。すなわち、友と敵を区別しようとすることが政治を意味する、ということだ。あるカテゴリーと別のカテゴリーとの関係は、自と他、友と敵の峻別と競合に集約されていく。

次回以降は民族と社会的虚構を今回の関係性から見ていき、そしてできるだけマレーシアをモデルに多民族について考えてみたい。

小坂井敏晶. 『増補 民族という虚構』. ちくま学芸文庫.2011.

杉田敦. 『境界線の政治学』. 岩波書店, 2015.

ANDERSON, Benedict. Imagined communities: Reflections on the origin and spread of nationalism. Verso Books, 2006.